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| 「抱きしめて タンゴ」 | |
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1990年のある日、当時師事していた故淡谷のり子先生 がシャンソンのレッスンを受けていた。私の顔をのぞき込 むようにして「あなたシャンソン歌ってておもしろい?」 と、私に聞いた。 そして言った。「あなたの声には、やっぱりタンゴが合 うわ。アルゼンチンタンゴを歌いなさい。嵐子ちゃんが引
退するようだから、代わりにやりなさい。」そして、さら |
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に続けて先生は言った。「タンゴを歌わないなら、歌手を辞めるのね!」・・・と。 嵐子ちゃんとは、藤沢嵐子さんのことである。 振り返ってみれば、この先生の言葉で、私の人生は大きな転換期に入ることとなった。 私には離婚歴があり、その頃一人娘は中学生になっていた。毎夜、ライヴハウスやクラブ で歌う母親を持った娘は、小学生の頃より鍵っ子でひとり淋しく夜をすごし、そんな娘に 心で詫びながら、それでもなお歌への夢を捨てられない自分の現実と夢との葛藤に苦しん でいた頃であった。 私は、名古屋で生まれた。3歳にして地元名古屋のラジオ番組「子供のど自慢」に優勝 以来、放送局の児童合唱団に入り、その後青春時タレントとなりテレビラジオで週7本の レギュラーを持つ売れっ子になった。東京へ進出しCMソング、キャラクター、シャンソン 歌手という経歴を持っていたが、私はすでに40歳であった。新しいジャンルへの挑戦は、 無謀というほかない。ましてや、成熟文化の極みともいえる、難しいジャンルのアルゼン チンタンゴである。しかし、自分の人生に妥協はしたくなかった。又、結婚にも失敗し、 人生は思い通りにならない苦しいものという失意のどん底にあった。私が夢を捨てず、夢 を追い続け挑戦することで、娘も勇気を持ってまっすぐに育てあげることが出来るのでは ないかと考えた。 翌年、私は淡谷先生の推薦を受けて、アルゼンチンの第二の都市、コルドバの州政府主 催のコンサートに出演するためアルゼンチンへと旅立ったのである。 初めて触れる本場のタンゴのカルチャーショックは、相当なものであった。私は、歌手 としての自分の無力さに気づき、さらに歌に励まされ、音楽によって生きる勇気を与えら れている人々がいる国を知り、それまでの自分の価値観が崩れてゆくのを止めることが出 来なかった。 本物を知ったからこそ、気づかされた命の尊さ。歌手の使命は娯楽のための人気者とい う役割だけではないはず。どうしてもタンゴの勉強がしたいと悩み抜いたあげく、私は娘 を一人残して、毎年のように2〜3ヶ月ブエノス・アイレスに行くことになったのである。 娘と細々と暮らす私にとって、資金の準備も容易なことではなかった。単身留学の異国で の幾たびかの挫折を乗り越え、娘との確執も何もかもよく話し合い、私の夢と挑戦を理解 して貰うことで、娘は私の一番の理解者になっていった。大きな目標を持てば、小さな目 標は知らず知らずのうちに達成されてゆく。 私が、アルゼンチンタンゴに挑戦するという大それた事を貫こうとすることで、娘が自 立し育ってくれた。私自身がタンゴに支えられ、タンゴに抱きしめられて、自分との対話 を繰り返し、結果自分の運命と宿命を感じていく自分探しの旅となったのである。 私は、いつも霊的な直感を大切にしてきた。人は、必ず自分の思っている通りの人間に なる。強く求め努力すれば、必要な事は必ず丁度良い時期に引き寄せられてくる。半自叙 伝エッセイという形で、ブエノス・アイレスでの体験や今までの崖っぷちともいえる私の タンゴ人生を、出版社の要請に応じて自分で400字詰め原稿用紙300枚を書き終えた。歌手 として、日本の芸能界にどっぷりと浸る選択をとらなかったからこそ、新たな経験から自 分の頭で考え抜き、そのことで知恵が生まれ、価値観を作りあげることができたのではな いだろうか。 そして、心が燃えた。心が燃えることでさらに挑戦することができた。人生の真の喜び は、生きていくことに心が燃えるということが、実は最も具体的な人生の生きる喜びなの である。「抱きしめて タンゴ」の本の発売に合わせて、同じタイトルのイメージソング も出来た。私の初めてのオリジナル曲である。 2003年4月23日 香坂優 |
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